statement

私の作品は絵(画)ではない。
絵画が白いキャンバスの上に作家の世界の独自性や自己の一回性を表明するものであるとき、私の作品は画面上に構築された世界について私自身がどう向き合ったかを提示しただけのものである。

私は一本の色糸を一つの個として選択する。
私が後に向き合う対象として構築する世界は数千〜数万本の色糸の集合体である。その一本一本を一つの個として選択する。一つの個とは個々が発する言葉であり、個々が持つ感情であり、個々の性格であり、つまり個々の色である。

エドワード・サピアが言ったように、今も昔も「現実世界」の大部分は一群の言語習慣の上に築かれ、その差異が地域や集団ごとの異なる社会のルールや思想、感覚世界を形成している。そして今、私たちの現実はコードやプログラムという新しい言語によって圧縮され、同質化された世界性へと上書きされつつある。

私が画面上に構築する世界で、一本の色糸は一つの個としてその色を主張する。数千〜数万本の糸のそれぞれが独自にそれぞれの色を唄い語る。その世界の構造は、デジタルの世界が0と1だけで表現されるように、糸が上がるか下がるかをするだけで構築される。作者による身体性を含む諸特性は存在しない。糸が数本であったり規模の小さい集団の集まりであったとき、そこにはまだ個々の色を基礎とするローカルが存在していた。しかし糸がローカルの垣根を越えて膨大な数の集合体となったとき、世界では同質化が始まり、そこに存在していたはずの個々の色はその意味を次第に失ってしまう。
グローバル化は今までの世界をより巨大な一つのシステムに統合しようとする。個は個としての色からコードやプログラムの構成要素へと変換される。

私たちの存在もこの一本の糸の在り方と変わらないのではないか。つまり画面上に構築された世界は、私たちの外にひろがる現実世界の見立てである。個は世界という集合体のシステムに組み込まれた一要素にすぎないかもしれない。しかしそれは同時に、世界が主体にとってのMatrix(素地)でしかないことをも意味する。世界(素地)を認識できるのは、この世界を生きる個々であり、私たち自身である。

結局のところ私の制作とは、現実での私たちの暮らしと同様に目の前の世界をどのように捉えどう生きるかというものである。それは私たちが自由にこの世界を創造できるのではなく、この世界の捉え方においては自由になれることに由来する。目の前の世界に対する触媒として個々の自由な認識を持ち込むことは、世界を「現実世界」にするものであり、その認識の体系こそを改めて「世界」と呼ぶ必要があるのではないか。 その為に私は世界に向かい、その認識を画面上に記す。

この世界を観測すること
この世界を翻訳すること
この世界で戯れ遊ぶこと

私の作品は、再びこの世界と個を結びつける為の実践認識論である。