そもそもの興味は、糸と言葉の関連性にあった。text(文章)の語源がラテン語のtexere(織ること= to weave)であるように、織物は言葉や文章が発達するより前の、私たちの意思の疎通や事象の記録を担う一つの言語体系だった。そして機織りという行為は自然の糸を0と1のバイナリへと変換する。それは分けられたものを分けられたままに統合するという、対立項を共存させるプロセスでもある。
私の制作は草木で染めた数百色の絹糸を、経糸として一本一本選択しながら配列し、緯糸として一本一本選択しながら織っていくものだ。一度の制作に要する色糸の選択は数千から数万回におよぶ。制作にあらかじめ決められたデザインや設定された目的地はなく、毎回の選択によって一つの織物が形成される。織物には私が行った選択の全てが記録されている。
言葉の選択や用い方にその人のひととなりが現れるように、そして一日の選択の繰り返しが今日の私やあなたを形作り、今までの選択の集積によって今の私たちがあるように、数千から数万回の色糸の選択が織物に現すものは私である。つまりこのtextは私自身である。
しかし制作における私という存在は、一見、織物に対する主体的な、全ての権限を持つ者のように見えるが、実は糸を選択するのは私だけではない。糸もまた、私の選択を選択するのである。私は糸を掴みとるが、糸も私を掴みとる。私は糸を対象とする主体であり、糸も私を対象とする主体である。私−糸の関係は主−客であると同時に客−主である。そもそも一本の糸には、その糸を吐いた蚕や、その糸を染めた草木、それらを育てた土や水、空気、記憶や気配が含まれている。それは一本の糸にとっての(また草木や土や水にとっての)数え切れないほどの選択の歴史であり、それは私と同様に糸のtextであり、糸自身である。つまり織物において私は、糸は、私たちは、分け隔てられた存在ではない。私は糸であり、糸は私である。私は、糸は、私たちである。
私たち(私、あなた、糸、蚕、草木、土、水、空気、時間、記憶、選択)はそれぞれのtextを持っている。そして私たちは自身のtextを織物に織り込み、織物によってtextへと織り込まれる。
私を「A」、糸を「B」とするのは、言葉の世界に住む、人間中心主義的な私たちとそのパースペクティヴでしかない。織物における糸(私たち)は常に0であり1、1であり0である。また、私たちは常にA=AでありつつA=B、 B=BでありつつB=Aとして織物を織り、織物に織られている。織られた布の表と裏に好みはあるかもしれないが、どちらかが正しいというわけではない。
織ることは、自/他、主/従、人為/自然などの二分法に囚われることのない視点と、私たち/世界を互いに互いのうちに織り込み包摂した「私たち=世界」を再提示する。それは私たちがこの世界に存在すること(being)=「ある」と同時に、この世界を生成すること(becoming)=「なる」ために必要な、私たちというtextの結節点となる。
黒田 恭章